
( この投稿は、一部映画の内容を含みます。 )
この映画を初めて観たとき、見終わったあともずっと涙が止まらなくてなかなか座席から立ち上がれず、自分でも驚いたことを覚えています。
当時のわたしは運命的なものを信じたこともなければ、そうした世界観に憧れていたわけでもありませんでした。
そんなわたしが、偶然誘われて観に行っただけのこの作品に、なぜこれほどまでに心が揺さぶられ、涙が溢れて止まらないのか…不思議で仕方ありませんでした。
初鑑賞から十年弱の時を経て、この映画と向き合ったときに感じた思いを、ここに書き残しておこうと思います。
紐と時空間
“─ 寄り集まって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って途切れまた繋がり…それがムスビ、それが時間。”
作中の台詞です。
量子力学の世界では、時間の概念に関して超弦理論が用いられることがあります。時間とは過去から未来へ、そして未来から過去へ流れる紐である、と。
劇中歌「夢灯籠」の歌詞でも次元について触れられているので、作中のムスビの概念は、量子論から着想を得ているのではないかと考えられます。
そして超弦理論なんて学説が生まれる遙か昔から、運命的なご縁が”赤い糸”と呼ばれてきたことにも、大きな神秘を感じます。
概念を描くとき、描いているというよりも、編んでいるという感覚に近いなと感じていました。そしてそれは、時空間を超えた静かな祈りであるとも。
組紐を編むシーンを見ていて、直感的に捉えていたものに、そっと輪郭を灯してもらったような気がしました。
10月4日の夜
描き終えてからずっと考えているのは、なぜあの夜、隕石が二つに割れたのかということ。
作中では、あの夜に糸守で起こってしまったできごとを防ぐために、宮水家の女性たちに入れ替わりが起こっていたと描かれていました。
でもね、わたしは逆だと思うの。二人が出会うために、隕石は二つに割れたんじゃないかって。
あの日のできごとがなければ、出会わなかった二人。でも、二人が出会わない世界なんて、きっと最初から存在しなかったような気がして。
作中で、隕石の片割れは宮水家に直撃しています。まるで意思を持っていたかのように。
隕石もまた、あの夜自ら二つの個体へと分離して、二人を出会わせるという運命を全うしたのだと、そんなふうに思っています。
運命だとか未来とか、
左右から同じ力で引っ張らないと紐を結ぶことができないのと同じように、運命というものも、ひとりで感じているだけならきっと、それはただの願望で。
同時に引き合ってはじめて、そう呼ぶことができるのだと思います。
生まれる前のことも、命の果てに何があるのかも、わたしには分からない。
ですが、わたしが今この身で感じていること… わたしの感覚、直感、体験、それだけは紛れもない本物であり、誰が何と言おうと、揺るぎなく確かに在り続けるもの。
こうしたものたちが、何か運命的な意味を持っていたとしたら。
否、意味なんて何も持っていなかったとしても。
わたしが生まれてきた理由は、永遠に変わることはない。
わたしが呼びたい名前は、ひとつだけ。宝物みたいにたいせつな、胸の奥で響く名前。
何百年先でも、何章先でも。またすれ違えたら、今度はきみの名のその先の、名前を呼ぼう。
